時間の使い方

Time

時間は全ての人に平等に与えられている。老若男女1日24時間は誰でも同じ条件にある。その1日を何年生きるかは寿命がありそれぞれ異なってくるが、どんな時間の過ごし方が幸せとか、充実感があるとかは、一概に言えず、人それぞれの価値観や人生観でも異なってくるかと思う。

私の実父は、78歳で病死した。最後は「とにかく早く死にたい。」としか口にしていなかった。もちろん、延命治療などは全く希望ぜず、早々と自分で慰霊の写真撮影を行い、遺書を残し、死の支度をしていた。食事を全く口にすることも出来ない状態だったが、病院嫌いで入院はしたくなかったので、死ぬのも自宅と決めていた。点滴注射も痛々しく、もう刺す場所もないような状態になっていて、点滴すら最後は拒絶していた。それでも、痛みはしっかりと感じているようで、その痛みの為に、「早く楽にさせてくれ」、「死なせてくれ」とか口にしない父を見て、正直、モルヒネでも打って痛みから開放し、楽に死なせてやりたいと思ったが、最期は自宅であっという間に死んでしまった。

78年も生きれば、十分に長生きしたと言えるかもしれない。

いや、これからの時代であれば、人生100年時代。まだ後20年もの時間が残っていたかもしれないとも言える。

父の人生を垣間見てみると、実直な仕事人生で定年退職してからは、それと言った趣味もなく、家で過ごす時間もTVを観るか、ラジオを聴いている位だったように思える。唯一、孫達との時間が楽しかったようで、「孫は宝だ。目に入れても痛くない。」といつも言って、色々な所に遊びに連れて行ってくれていた。

しかし、孫達も年齢が上がれば、自分達の時間で忙しくなり、いつまでも爺爺婆婆と遊んでいるような時間はなくなってくる。せいぜい、幼稚園から小学低学年程度までの4、5年間位の束の間の楽しみでしかないのだ。

depressed

有り余るほどの時間があり、毎日毎日、同じことの繰り返しになり、夫婦での会話も弾まず、出掛けることもなくなって、家に篭りがちにもなる。

「ただ生きるだけ」ではなく、生きる意味とか目的を真面目に考えてしまう人ほど、無情な時間に耐えることも出来なくなるのだろうか。

病気と闘い、1日でも長く生きてやろうという気力もなくなってしまうのだろうか。

父の人生を反面教師にして、学ぶことは沢山あった。

1,仕事を自分の人生の主軸にしてはいけない。

仕事はあくまでも収入を得て、生活する為の手段にしか過ぎない。仕事がなくなったら、自分の人生が終わってしまうとか、仕事での人間関係や職場での職責や地位を自分の評価とか価値と捉えて錯覚してしまうような考え方は悲劇でしかない。

2,一人の時間を楽しめるような生活をしていきたい。

所詮、人間は一人だ。家族でも依存し過ぎてはいけない。心許せる相手が居ることはとても恵まれているし、幸せなことだと思うが、永遠に続くものはない。人は変わる。いつまでも不動なものは何もないと思わなければいけない。

結局、最後に残るのは自分の時間だけなのだ。

survive

人間はただの動物に過ぎない。究極の使命は、「生き延びること」「ただ生きるだけ」でいいのだ。

できるだけ健康な体を長く維持する為に、食事をしっかり食べ、そして、適度な運動をして、しっかり寝ることだけだ。生命維持の為には必要最低限のお金は必要になり、その為に人間は働く必要がある。

必要以上のお金は、人間を貪欲にし、そしてその結果、地球の生活環境が脅かされていることは否定出来ない。

1日24時間から、生命維持の為の必要な時間を差し引いて、残った時間は、暇潰しとして、好きなことがあればいいだけだ。

そう、難しいことを考えないで。

暇潰しが沢山出来る人が、強いヒトであり、長く生きるかもしれない。

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